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2024/10/05 学園ブログ

2024.10.01創立記念講話

10月2日の創立記念日に際し、本校創立までの経緯について話をすることにします。
 
本校の母体となる学校は2つあります。その前身の一つである「関西商工学校」は、明治35年(1902年)に平賀義美先生らによって創立されました。ですから、一昨年の2022年が、関西商工学校創立120周年記念ということになります。

 
では、なぜ関西商工学校が創立されることになったかというと、創立4年前の明治31年(1898年)、丁酉倶楽部(ていゆうくらぶ)とよばれる大阪における元武士の人たちや東京職工学校(現在、東京工業大学)出身の方の集まりがあり、大阪にも東京工手学校のような夜に学ぶことができる教育機関を創るべきではないかと、議論されたことに端を発します。
東京工手学校は、現在の東京新宿にある工学院大学の前身にあたり、明治20年(1887年)に創立されます。当時は「殖産興業」「富国強兵」のスローガンのもと、欧米と肩を並べるには、産業の育成を図る必要がありました。特に、鉱工業や建設などの各分野で不足していた、現場を支える職工の育成が目的で、専門の技術者を補助する技師と、職工とよばれる工場労働者との間で、現場を支え、指揮監督する任務に当たる工手と呼ばれる技術者を育成するために創られた学校です。大阪においても、今から120年前は、中堅の技術者養成のための学校がなく、丁酉倶楽部の方々の議論から、将来を見据えた中で発起人の代表として平賀義美先生が初代校長として就任され創立に至ることになります。この時代大阪の坂は土編で書かれることもありましたが、土に返るということは縁起が悪いということで、今使われている「こざとへん」の阪が使われるようになります。
平賀先生のご自宅は、国の有形登録文化財として大正時代に建てられたものが現在、川西市に移築されています。また、創立当初は、商業・土木・建築・機械・電工・造船・紡績の7つの学科からなる実業学校でした。学校自体は適当な土地が無く、当時の大阪市北区堂島浜通にあった大阪市立高等商業学校、現在の大阪公立大学の敷地・校舎・備品を3年間期限付き無償で貸与され、開校されたそうです。
この関西商工学校で学ばれた方がパナソニックの創業者で、経営の神様と呼ばれた松下幸之助氏です。


今から67年前の昭和32年、1957年10月2日に生徒にむけて話された松下幸之助氏の講演記録が校長室に残っています。当時はスクールミーティングと題し、年に数回各界の著名人の方にきていただき、講演が行われていました。現在行われている「学問体感」のはしりといえるかもしれません。
さて、幸之助氏は20歳の時に、関西商工学校に入学されますが、当時は大阪電灯会社という電気を供給する会社の職工をされていました。仕事を夕方5時に終え、チンチン電車に乗り、今の京阪中ノ島線の駅がある渡辺橋から歩いて学校まで来て、夕方6時から始まる授業を受け勉強されたようです。講演記録によると9歳の時に丁稚奉公に入られます。丁稚奉公とは、親元を離れて住み込みで働く事で、14歳の時にその丁稚奉公をやめ、大阪電灯会社の職工になられます。只、電気の技術も日に日に進歩してくるので、勉強をしなければ職工として仕事をするにも難しくなり、20歳の時に思い切って関西商工学校に入学することにしたそうです。
先日、新聞に「世の中の変化や技術の進化は、今後さらに激しくなり、生涯を通じて自分で勉強し、新しいことをキャッチアップしていく必要がある。そのための基礎学力や考え抜く力を中学・高校・大学で養わなければならない」と書かれていました。それを考えると今も昔も変わらないということです。
さて、関西商工学校は、その後、㍼6年(1931年)に、福島区大淀の地に校地を購入し、茨木に移転する1963年まで授業が行われました。
因みに平賀先生は、福岡藩の下級武士石松源次、ます子夫妻との間で生まれ、幼名を辰三郎といい、姻戚関係にあった平賀家に養子に入り、江戸時代末期、創立された幕府の学校である大学南校に入学されます。大学南校は1877年に東京大学となりますが、翌1878年に東大理学部化学科を卒業されます。ですから東京大学卒業二期生ということになります。
そして、イギリスのマンチェスターにあるオーウェンカレッジ、現在のマンチェスター大学に留学されます。マンチェスター大学は、ケンブリッジ、Oxfordにつぐ名門大学で、現在までに25人のノーベル賞受賞者を輩出しています。帰国後は、先ほど言いましたが東京職工学校(現、東京工業大学)で教鞭をとられ、その後、大阪に来られ関西商工学校設立に至ることになります。大阪の産業界においても織物や薬、硝子、セルロイドなど多々事業の支援をされています。その1つである堺セルロイド会社は、大阪セルロイド会社と名前が替わり、今はダイセルという名前になっています。そのダイセルの関連事業であるセルロイドが写真フィルム事業となり、そこから発展した会社が、現在の富士フィルムということになります。

次に、大阪大倉商業学校について触れたいと思います。大阪大倉商業学校の創立者、大倉喜八郎翁は、1837年に現在の新潟県新発田市に農家の名主の三男として誕生されますが、生まれる5年前の1832年~36年にかけては、洪水や冷害による全国的な飢饉「天保の大飢饉」があり、生まれた1837年には、大阪で大塩平八郎の乱が起こる等、凶作・飢饉による百姓一揆が頻発し、江戸幕府が倒れる兆しが見え始めた頃でもあります。

 

18歳の時、江戸に出、中川鰹節店で働きその後、乾物屋を営まれます。近所には越中今の富山から同じように江戸に出ていた安田善次郎がおり、お昼は一膳飯屋で一緒に丼めしをぱくつく仲間でした。安田善次郎は、現在のみずほ銀行の前身にあたる安田銀行や、現在の明治安田生命保険会社を創業された方で、東京大学の安田講堂を寄付した人です。
喜八郎翁は、時代の流れと先を見据えた事業を展開され、多くの事業において得た莫大な利益は、やがて社会や公共のために生かされることになります。そして、外国との貿易を顕著に進めるため、150年前に今の商社にあたる大倉組商会を設立し、イギリスのロンドンに日本で最初の海外支店を出しています。また、この間、鹿鳴館や新橋停車場の工事なども手掛けられています。
喜八郎翁は常々、「我が国の貿易振興を容易にするためには、堅実な性格と新知識に裏付けされた有為な人材を育成する必要がある」と考えられていました。
明治に入り30年が経過した1897年、60歳の還暦を迎えられることを契機に、長年の友人でもあり、よき理解者でもあった澁沢栄一とも相談し、商業学校設立の構想を発表することになります。


3年前に放映されたNHKの大河ドラマ「晴天を衝け」は、渋沢栄一が主役でしたが、回が進んだ後半には喜八郎翁も出てきました。また、今年三月にはNHKeテレ「知恵泉」という番組で2回にわたり特集が組まれました。渋沢栄一が肖像になった新1万円札が、この7月から使われていますが、渋沢の著作の中には、旧知の間柄である翁に関する記載があり、境遇、考え方や学校を設立に尽力するなど似ているところがたくさんあります。
渋沢栄一らと共に、今の東京証券取引所や東京ガス、東京電力、大阪紡績会社や札幌ビール、帝国ホテルなど約300社近くの事業に関わっています。帝国ホテルは、渋沢が会長、翁が社長を勤めていました。渋沢栄一が日本の資本主義形成の父と言われるならば、喜八郎翁は日本の資本主義の母と言っても過言ではありません。そして、10年経った1907年70歳の古稀を迎えるにあたり、翁は当時のお金で50万円、今の金額でおよそ100億円を資金として、大阪大倉商業に50万円のうちの30万円、今のお金で約60億円、残り20万円に5万円追加し、ソウルの善隣商業学校に25万円、今のお金で50億円を資金として、各々設立にむけ動かれていくことになります。東京経済大学も元々は東京大倉商業学校といい、大阪大倉商業学校、韓国ソウルにある善隣商業学校、現在は善隣インターネット高等学校と言いますが、全部で3つ学校を設立されます。
大阪市北区常安町の府の土地1,438坪の無償提供をうけ、大倉土木大阪支店、今の大成建設関西支店によって校舎建設に着手されることになります。高校棟並びに共用棟は大成建設様、天井を見てもらうとクーラーや照明など電気関係はパナソニック様にお願いしたのも、これらのご縁があり、建設に至ったのも解っていただけるかと思います。
そして、喜八郎翁、70歳の時、1907年3月31日新校舎が竣工、正式に認可され、初代校長に安場禎次郎先生を招聘して、学校運営を任されることになります。
大阪大倉商業の教育方針は、非常に厳格でした。例えば、教科書やノートを忘れた場合は、内容の如何に関わらず該当教科は欠課扱い、その上、教室の外に立たされたとのことです。また、身だしなみについての躾も厳しく、ボタン一つ外れていてもきつく叱りとばされ、言葉遣いにおいても、ある時、生徒が大阪弁で、自分をあらわす「私」を「わい」といった程度でも3日間の停学処分を受けたそうです。
一方、授業は「読み」「書き」「算盤」を中心に進められました。同窓会総会に出席された80歳代のお二人の方は、今でも四桁の掛け算は暗算でできると仰っていました。また、大阪大倉商業学校は、創立当初から日本人でも外国と商売、貿易できるようにと外国語教育にも力が入れられており、R・F・ヴィーチ先生というアメリカ人の先生が英語の授業を担当されていました。今では、どこの学校でもネイティブの先生がおられますが、100年以上前から外国人の先生が英語の授業を担当していました。
最後に、両校合併の話と創立記念日の話をして終わりたいと思います。
今映っているのは、戦争で焼けた大阪の風景です。
㍼20年(1945年)3月14日、太平洋戦争のアメリカ軍による空襲で、大阪大倉商業学校の校舎は全焼します。東京大空襲が同じ年の3月9日にあり、その5日後ということになります。学校は、空襲により、校舎・記録類すべてを失いますが、唯一残ったのは、共用棟の前にあるソテツだけ、その後3年近くの間、授業を行う教室を求め、大阪市内の学校を間借りしながら授業を続け転々とすることになります。
同窓会から配布される会報の名前である『サイカス』は、この残ったソテツに由来します。そのような中、㍼22年(1947年)に、府から無償で貸与されていた土地の返還要請並びに通知をうけたことで、校舎も校地も無く存続自体危うくなります。また、関西商工学校も、鉄筋コンクリートの校舎は一部焼け残ったものの、戦禍による憂き目と生徒数の減少も重なり、学校の存続について模索されていました。このような状況の中、両校合併の話が持ち上がり、両校関係者、大倉家、平賀家の了解を得、大阪大倉商業校長で、のち関西大倉学園校長になられる高木美喜次先生や関西商工学校校長金森隆憲先生らの尽力により、合併、今日に至ることになります。
創立記念日については、関西商工学校は、1902年(㍾35年)の10月3日でした。また、大阪大倉商業学校は、大倉喜八郎翁の誕生日が10月23日ということもあり、この日にあわせて開校式が開かれたことで、10月23日を創立記念日としていました。
両校合併後、1948年(㍼23年)9月2日に合併式並びに入学式が行われたのですが、両校の創立記念日が10月ということもあり、㍼25年(1950年)10月2日に第三回創立記念式典が行われたことから、以後、毎年10月2日を創立記念日とし、現在に至っています。
平賀先生にしてもイギリスマンチェスターに留学されていますし、大倉喜八郎翁にしても、㍾5年(1872年)に、自費で欧米の視察に行かれています。ロンドン滞在中、明治政府が派遣した岩倉具視らの使節団の要人達と知遇をえることで、後々の事業との縁をむすぶことになります。その事業を通じて懇意になったのが渋澤栄一です。
松下幸之助氏にしても、時代の趨勢を見極める先見性や行動力、ものごとに取り組む熱意(パッション)と高い志をもたれていることが、両校関係者に共通しているといえます。
先人の方々の教訓を糧に、生徒の皆さんも、自分の将来、未来を見据え、自分は何をすべきかを主体的に考えること。人には、生まれてきたからには、それぞれみんな使命があります。大学院や海外の大学への留学も視野に入れ、人としての幅を広げ、高めること。
AIや科学技術が発達すればするほど、人間力というものが重要になります。時代に左右されない普遍的な力、今の時代を生き抜くために身に付けておかなければならない基本的な力、いくら学力や知識があっても、偏差値が高くても、どんなに立派な道具を持っていても、「あの人の人間性は最低だ!」と烙印を押されたら、それで終わりです。知識や学力はあくまで道具です。知識や道具、学力は使ってこそ価値があります。只、使うのはあくまで人間である君たちです。その前に当たりまえのことができないと話になりません。普遍的な力、基本的な力、人間力とは、当たりまえのことができる力のことです。
普遍的な力、基本的な力、人間力、当たりまえのことができる力はどんな力なのか。自分で考え、具体的に挙げてみてください。
私からは今日の講話ではあえて伝えないことにします。人間としてもつべき普遍的な力、基本的な力、当たりまえのことができる力、所謂、人間力を中学、高校で培って下さい。
以上で、創立記念講話を終わります。