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2025/01/11 学園ブログ

1月8日始業式での校長講話

おはようございます。三学期が始まりました。正月、元旦、生徒の皆さんはどのようなお正月を迎えられましたか。今年は2025年、百年遡った1925年は、衆議院議員選挙法が改正され、満25歳以上の男子全てに選挙権が与えられた年、かつラジオ放送が開始された年でした。昨年一年を振り返ると「民主主義」を巡っては、日本では衆議院総選挙があり、アメリカ大統領選挙、韓国では年末に非常戒厳が出されるなど多々考えさせられることがありました。

また、第二次世界大戦、太平洋戦争が終わり、80年が経ちました。この1月17日は阪神淡路大震災から30年にあたります。能登半島地震が昨年正月元旦に起こったことも記憶に新しいところです。それらを考えると民主主義だけに留まらず、色々と考えさせられますが、生徒の皆さんはどうでしょう。

 さて、元々、正月はお盆と同じで、祖先の霊に当たる年神様、その年の神様を迎えてお祀りし、一年の豊作を祈る日で稲作儀礼のひとつです。

門松は年神様が降りてくる目印で、神様の食事として黒豆や数の子、田作り、昆布巻きなどの料理、いわゆるお節(おせち)料理がつくられました。おせちは、季節の節目を祝い、神々を祀る五節句(五節供・ごせっく)の行事として、中国から伝わりました。「おせち」とは、奈良時代、宮中で行われた行事の後に食べられた食事を「御節供」(おせちく)と言い、この「御節供」がおせちの語源と言われています。それまで宮中行事でしかなかった御節供(おせちく)が、庶民に広まったのは江戸時代。幕府が公式行事として節日(せちにち)を制定し、季節の節目を祝い、神々を祀る節日に食べられるようになります。のちに最も大切とされる年の初めの節日(せちにち)に食べられるものだけを「おせち」と呼ぶようになりました。節日(せちにち)は節句とも言われ、1月7日の人日(じんじつ)の節句、3月3日の桃の節句は、上巳(じょうし)の節句といい、三月初めの巳の日という意味で、後、3日に定められます。ちょうど桃の季節なので、ももの節句と呼ばれます。5月5日を端午(たんご)の節句、7月7日のたなばたは七夕(しちせき)の節句、9月9日は重陽(ちょうよう)の節句などがあります。今日は人日だけ話すことにしますが、後は自分で調べてください。昨日7日は、「人日」(じんじつ)の節句でした。1月7日「人日の節句」は、年が明けてから初めて訪れる節句の日です。「七草粥を食べる日」と聞けば納得、或いは聞いたことがある皆さんも多いと思います。一方で「人日の節句」と聞いてもピンとくる人は少なくないのではないでしょうか?「人日」の由来は、古代中国の『荊楚歳時記』(けいそさいじき)という書物に見ることが出来ます。これによれば、一月一日を鶏の日、二日=犬、三日=羊、四日=猪、五日=牛、六日=馬、七日=人、八日=穀の日とし、そして、一日は鶏を殺さない(食べない)、二日は犬を殺さない、七日は人を殺さない(処刑を行わない)、八日は穀物類を断つ(食べない)などの決まり事があったようです。このことから、1月7日が「人日」と呼ばれるようになったと言われています。

同じ『荊楚歳時記』の中に、「人日には七種類の若菜で羹(かん、あつもの=温かいスープのこと)を頂く」という記述を見ることもできます。

七草粥を食べるのも江戸時代から始まったようで、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロの七草は、早春にいち早く芽吹くことから、邪気を払うといわれ、そのためこれを食べることで、1年の無病息災を祈ったと言われています。地域によっては、七草には違いがあるようです。お節料理の黒豆は食べましたか。黒豆の黒は邪除けの色とされ、禍いを払う、邪気払いの意味が込められています。また、黒く日焼けするほどマメに勤勉に働けるよう願う意味があります。

数の子は、卵の数が多いことから子孫繁栄を願う縁起物です。

乾燥させた片口イワシの稚魚を甘辛く炊いた「田作り」は、「ごまめ」とも言います。江戸時代に片口イワシは、肥料として使われるようになります。このイワシの肥料を干鰯といい、戦国時代に使われだし江戸時代に広まります。干鰯の記述は、伊予国、現在の愛媛県の戦国武将土居清良の『清良記』に記載されています。

干鰯が使われ豊作になり、五万俵ものお米が収穫されたことで、田を作ることにちなみ、「田作り」といわれるようになります。ですから五穀豊穣を願ったものです。別名の「ごまめ」は「五万米」の文字をあてていますが、これも豊作祈願からつけられています。干鰯は稲作だけに留まらず、木綿や菜種の栽培にも使われました。

 さて、新年の「おめでとう」とは、新しく芽がでること、生まれることで、心機一転をはかることでもあります。人は学ぶことを忘れた時、成長を止めます。大人である教師もまた学び続けることが問われます。学びの種は、身の回りに多く存在しています。小さな気づきから学びは始まります。

生徒の皆さんにとって、自分自身、自らの勤め、義務や意義、何のために学ぶのか。学ぶ前と学んだ後とでは、自分自身がどのように変わったのかが大切で、友達や人を貶めることを目的に学校に来ている人はいないはずです。スマホやLINE、ゲームをするため、You Tubeを見るためを目的に学校にきている人は誰もいないはず。学校へくる目的は何か、どのような力をつける必要があるか。何のために大学に行こうとしているのか。その使命感が大切です。命は使うものです。誰かのため、自分のため、社会のために使うものです。

勉強だけができても、人として人間として、当たり前のこと、世間一般の道徳、規範を身に付けておかなければ話になりません。挨拶はできてあたりまえ。嘘をつかないは当然のことです。テロップにはありませんが、椅子を使ったら必ず入れる。元に戻す。靴は脱いだらきちんと揃える。自分が使った食器は自分で片づける。

当たりまえのことができる人は、伸びる要素を十分に備えている人です。一挙に成長することはありません。自分自身をすこしずつ成長させていくことが、今の君達、生徒の皆さんに求められていることです。

来週末には、中学入試や共通テストがあります。また、二月には高校入試や卒業式もあり、三学期はアッという間に終わります。高三生の皆さんの中で、18日から始まる共通テスト、私立大学並びに国公立大学の二次試験を受験する人は、体調を整え万全の体制で望んでください。

三学期は学年最後の学期です。中学生、高一、高ニ生の皆さんは、学年の総復習含め基礎学力の定着を図って下さい。高校生で成績低迷している人は、場合はよっては、中学のやり直しをしないといけません。高二の皆さんは、時間切れ突入、後悔しないように…。何度も言っていますが、「時間は有限、努力は無限、後悔は永遠」です。

以上で三学期始業式講話を終わります。